わたしは、わたし?
以前聞いた話をときどき思い出します。
わたしは、器に過ぎない?
昆虫は、大きく2つに分類されます。完全変体と不完全変体です。蛹になるかどうかが区別する際のポイントになるようです。蛹の中では、幼虫の形はとどめておらずドロッドロになって、それはまるで別の生き物に生まれ変わるような有り様だそうです。まるでその生き物の中に2つの生命が宿っていて、「最初は君ね。水の中でも生きられるから。そしたら蛹になってもらって次は僕、食べモノを空中から見つけられるし卵をいい場所見つけて産みつけられるからね、」のように。(素人なので、正確ではないと思いますが、こんな話を語っていました。)
生命を維持するための取捨選択
日本のホラー映画が流行った際、ある映画の中で、ミトコンドリアがヒトの細胞に寄生し、共生するようになった…みたいなストーリーが組み込まれていたように覚えています。遺伝子を分析するとそんなことまで推測出来るのかぁ、科学ってすごいなぁって感心しました。私たちははるか遠い昔に生命を維持するための取捨選択をしてきたのだろうなぁ、だから今があるんだろうなぁと想像しました。(これも正しいのかどうなのか、素人にはわかりませんが。)
「我思うゆえに我あり」とはいうけれど、その我、つまり自分って何だろう。ふとした時につい考えてしまいます。かれこれ20年以上そんなことを考えているかもしれません。眠れない時、走っている時、暇でぼーっとしている時…、そんなことを思い出し、妄想に耽るのです。
僕は、「僕が僕だ。」「僕は、この体であり、この心である。」というつもりで生きています。「この体は、僕である。」は正しいと思います。僕の意志がなければ、この体は動かないのだから。でも、ミトコンドリアの説もあります。細胞レベルで、もし2つの生命が共存しているとしたら僕という個の体は、2つの生命体からできているということなのだろうか?そもそもこの体の細胞は日々入れ替わっていて、数年ですべての細胞がらしい。僕は僕で変わらないと言えるのだろうか。
「この心は、僕である。」これも正しいように思います。デカルトが言うように僕が思考するから僕である。ただ、瞑想をしてみるとわかりますが、黙っていると僕の意思とは全く関係のないところから、勝手に雑念が浮かび、思考はそれに流されます。その思考は時に喜怒哀楽といった感情まで引き起こします。勝手に浮かんでくるこの雑念は、心だろうか?僕の意思とは関係のないところで浮かんでくるこの心は僕なのだろうか?
僕と体は、厳密にはイコールではない。僕と心も厳密にはイコールではない。ならば、僕とか自分って何なんだろう。
僕たちは、蛹にはならないけれど、思春期を経験します。肉体的にも精神的に大人に変わるとても不安定な時期です。もしかしたら幼少期と青年期で2つの生命体が共存しているなんてことはないだろうか。
自分とは、ただの器ではないのか。
見て嗅いで触って聞いて味わってまたは勘で、周囲の状況に関してたくさんの情報を得て、生命を維持するための選択をする。それが意識の正体。動くことが必要であれば体を動かす、他の個と協働が必要であればコミュニケーションをとる。その取捨選択は、意識のレベルだけではなくて、細胞のレベルでも行われ、皮膚から口から他の生命体が侵入し共存を試みる。それが生命維持に有益であれば、体の中で増殖しさらに強い個へと進化し、それは子孫へと受け継がれていく。それが体の正体。
単なる妄想でした。
読んでいただきありがとうございます。よい1日になりますように。