自然が受け入れてくれる

学ぶ

 自然にふれよう

「自然と触れ合う」そんなイベントに参加しました。沢登りをして源流を探索したり、アウトドアクッキングをしたり、ウォークラリーで森の中を探検したり…。小学生のお子さんが多く参加していました。少しぽっちゃりで普段自然の中で遊んでいないように見える子が多いように感じました。それでも、沢登りの最中にサワガニを見つけて、大はしゃぎして捕まえたり、カナヘビを捕まえて大騒ぎしたり、沢の中にどっぷりと浸かって生き物を探したり、全身ずぶ濡れになって誇らしげに歩いていたり、アウトドアクッキングで火を起こして、燃え盛る様をじっと見つめていたり、どの顔も動物的な生き生きとした表情をしていました。

自然の懐は、広く深い

その表情を見て、考えました。僕は、普段からこんなことをしていたなぁということ。現代に比べて(数十年しか違わないのですが…)、僕が子どもの頃は案外”きまり”なんて気にしていなかったなぁということ。平気で川を飛び越えて遊んだり、石キリをしたり、フナ釣りをしたり、爆竹や花火などもして遊んだし、薪ストーブでいろんなものを燃やしたり、自転車でどこまでも遠出したりしたこと。

親も地域の人々からも別にとやかく言われた覚えはありません。(別のことで叱られることはありましたが。)友達よりも大きなアメリカザリガニを捕まえようとして、ドブ川に手を突っ込んだりして捕まえたりしていました。カブトムシやクワガタを捕まえたくて、夜に蜜を木に塗り翌朝確かめに行ったり、街頭に集まるカブトムシを捕まえに行ったりしました。ノコギリクワガタやミヤマクワガタを捕まえたくて捕まえたくていろんなところに探しに行きました。(見つけた記憶はありませんが。)

自然の中に、僕らの居場所は必ずある。(と思う。)

自然の中で僕は育ったなぁと思います。怪我をしたり、痛い思いをすることはもちろんあるけれど、自然の懐はとても広く深く、子どものやることなどは許容してくれる寛大さがあります。木の棒を剣に見立てて、振り回して別の木の幹をキズつけても、木はへっちゃらでしょう。葉や枝を折ってしまっても、それだけで木が枯れてしまうことはないでしょう。手にトゲが刺さるなどの痛みを教わることでしょう。そこには、いろんな生き物が生きていることにも気づくでしょう。学校や家庭だけが自分の世界だけではないと、気持ちが楽になるのではないか。

自然の中で、生き生きした表情で活動する子ども達を見ていて、ふと自分の子どもの頃を思い出し、自然って大事だよなぁと改めて感じたのでした。ある程度整備され、ある程度危険を除去した沢であり、山道であり、調理場であったかもしれません。けれど、自分のすべてを受け入れる自然のありがたさを感じていたのではないかなぁと思います。

社会や職場、学校は、僕たちが安心して生活するための仕組

社会や学校は、人間が作り出した不自然な場所なのだろうなと思います。もちろん、そこの居心地がよく、生き生きと活躍できる人間もいることでしょう。けれど社会的な場所は、子どものやりたいことのすべてを受け入れることはできません。社会も職場も学校も、人々の暗黙の了解のもとで、秩序立てられて築かれてきた仕組なのです。自ずとそこには、方向性があり、決まりがある。その方向性は、360度全方位の生き方も欲求もを受け入れられるものではなく、安心・安全と引き換えに、僕たちの人間性のある部分には制限をかけ、我慢を強いて成り立つ仕組なのだと思います。

社会生活に順応し、職場で集団で仕事をさせるために学校はあるのだなぁと改めて思います。この成熟しきった世の中に、生きづらさを感じ、不登校が増えているのは理解できるような気がしてきました。自分のいる場所が見つからない、自分が受け入れられないというのがきっとわかるのです。友達や先生や親とうまくいかなくても、自然の中には、きっと居場所はあるだろうに。

自然 と 人工

友達といっしょにいたい時には、そうすればいいし、一人になりたい時には、離れて好きな場所に行けばいい。それに応えてくれるのは、人間が作った社会や学校ではなくて自然なのだろう。

社会の縮図のような学校で、精気のなくトボトボと登校する子どもたちをみて、この子たちを何の制約もなく、ルールもなく、自然の中に放したなら生き生きとした人間性を取り戻すのではないだろうか。これからの混沌とした予測不能な世の中に対応する術を自然から教わるのではないか。自然にふれる子ども達の姿から、そんなことを考えたのでした。

僕たちの人間性は、自然と生きることで取り戻すことができるはず。

お読みいただきありがとうございます。良い1日になりますように。

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