自己中心的で、俺様気質…「そんなやつ、どこにも一人はいるよねぇ。」と言いたいところですが、振り返ると自分もそうかもしれません。陰では、そんなことを言われているかもしれません。僕は、今は感情的にならず、衝動的な行動は控えることができるようになってきたと思います。が、客観的にどうだろう?自信はありません。
早朝ジョギングのコースに、神社を2箇所入れています。鳥居の前で、帽子をとり、手袋を外し、一礼します。手水で手と口をすすぎ清めます。境内を進み、二礼ののち鐘を鳴らし、二拍手し、祈ります。「日々のお導きに感謝します。たくさんの気づきを得て学んでいます。家族が健康で過ごしている当たり前に感謝します。」一礼ののち、神社を後にします。
朝焼けの薄暗い中、月もまだ上っていることが多く、空気は冷たく張り詰めて、凛としています。人はほとんどおらす、荘厳さと神聖さを感じます。
僕は、人に笑われるほど自己中で欲張りな人間です。(でした。と言いたいところですが…)だからこそ、「自己中心的で欲張りであること」は、あまり生産性や創造性がなかったなぁと思うのです。
娘が海外へ渡航するという無謀な挑戦をすると決意し、実行に移した際、僕には何もできませんでした。十分な金銭的援助もできず、海外生活の助言などもちろんできず、本当に何もできなかった。向こうで住む場所は見つかるだろうか、交渉はできるだろうか、予算は足りるだろうか、騙されないだろうか、仕事が見つからなかったらどうしよう、文化の違う社会に馴染めるだろうか、現地の人に嫌がらせを受けたら…、人種差別もあるというし…、病気になったらどうしよう…、事件や事故に巻き込まれたら…。心配ばかりが募り、けれど、何もできませんでした。
僕には、ただ祈ることしかできなかった。元気で過ごすように…、安全に、無事に過ごすように…、希望しているような充実した生活ができるように…祈ることしかできませんでした。ただ自分の都合の自己中心的な祈りでは、届かないような気がして、自分の好きなことを娘が帰国するまで断ちました。また、ノートに祈りの言葉を毎日、朝晩書き記し続けました。
今僕は、祈りが、僕や家族を正しい方向へ導いてくれていると感じています。感謝しています。参拝し、祈ることを続け、何らかの示唆・導きのようなものを感じるようになりました。(気のせいかもしれません。)
今日も、読んでくれてありがとうございます。みなさんの1日が素晴らしい1日になるように祈ります。