【小説】喫茶店「歌澄」の述懐

小説

喫茶店 「歌澄」の述懐

その喫茶店は、海沿いの町にひっそりと佇んでいた。震災後に建設された防潮堤により、町の人々の日常から海が遠い存在になってしまった。町と海がともに生きていた日々が懐かしい。

店内に入ると、コーヒーの香りとともに、昭和60年代から平成に至るころの歌謡曲が流れてくる。懐かしくもあり、時代が変わってしまったことを否応なく感じさせる雰囲気が歌にはある。選曲は、店主の好みによるものだ。今日は、cocoの”半分不思議”が流れている。昭和の終わりから平成にかけて活躍したアイドルグループらしく店主の好きなアイドルの1つだ。「〜反対の気持ちだけが、唇をこぼれる〜今が、輝きに溢れるほど、不安になっていく〜」

「この頃の歌謡曲は、歌詞もメロディもいいんだよなぁ。アイドルが大好きだったよ。健康的で、可愛らしかった。あの頃のアイドルは、松田聖子からCoCoまで、全部覚えてるよ。ロックも、素晴らしかったね。俺は、サザンやチューブ、チェッカーズくらいまでだったけどね。ボウイやブルーハーツはあまり聴かなかったなぁ。ランキング番組は、欠かさず毎週見てたよ。次の日は、学校や職場で好きな歌手の新曲が話題になったよねぇ。エアーチェックの時代だよ。テレビやラジオで流れるヒットソングを、カセットに録音して、ダビングしてみんなで貸し借りしたよね。カセットには、ノーマルとかハイポジとかメタルとかあってね。カセットのケースには、ほらABCとかカタカナとか、こすって印字するシートでタイトル作ったよねぇ。そうやって貸したり借りたりして、オリジナルのカセットテープを、みんなで共有したんだ。みんなが同じヒット曲を歌えたもんだよ。だから、あの頃は、歌が世の中の雰囲気を作り出していたんだよね、きっと。懐かしいよね。あの頃の曲はね、今でもよく覚えているよ。」

そんなことを店主は、よく話す。「歌澄」という店名も、歌謡曲好きから来たものだろう。とりたてて尋ねたことはないけれど、歌が大好きなのだ。大抵の曲はイントロが流れてくれば、すぐにわかるらしい。

コーヒーの香りと昭和の歌謡曲とともに、聞こえてくるのが店主の話し声だ。ここにくる客のほとんどは、店主と話すことを求めてやってくる。小学生くらいから、店主と同年代の私のようなものまで幅広い年代が店主との話をしにやってくる。その多くが町の人間だから、どの時間が混んでいて、空いている時間はどの時間帯かおおよそわかる。

歌澄では、僕は、コーヒーとスコーンくらいしか頼まない。ここよりも美味しいコーヒーやスコーンはあるだろう。他のメニューを試そうとも思わないし、他の客がコーヒー以外のメニューを頼んでいる姿も見たことがない。子供がジュースを飲んでいる姿くらいだ。この喫茶店には、店主に話を聞いてもらいたい人々が集まるのだ。

「おぅ、いらっしゃい。今日はどうだった?疲れた顔してるねぇ。仕事大変だった?コーヒーでいいね。」

僕が席に着く前に、甲高い声で話しかけてくれる。客と会話をしていても、声をかけてくれる。僕が店主と顔なじみで仲が良いことは、常連客であればほぼ知っているので、訝しがられることはあまりない。「やぁ、マスター。今日も暇そうだねぇ。」なんて冷やかしながら声をかけようと思ってたのだけれど、その前に話しかけてくれる。僕は、いつもの席に座り、カウンターには、会話を楽しみたい人々が座る。滅多に僕は、カウンター席に座ることはない。いつもの席で、コーヒーを待ちながら、そしてコーヒーを飲みながら、店主と客の会話に耳を傾けるのだ。

 

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