僕は、欲で頭がいっぱいになると、心が落ち着かなくなり、苦しみを感じます。苦しみから逃れたいと願い、また別の刺激を欲し、再び苦しみを招きます。多くの人には、共感してもらえるのではないでしょうか。私たちは、苦しみから逃れたいと願い、苦しみにすがってしまう存在です。それほど、苦しみからは、逃れ難い。
「本来無一物 持たない生き方」金嶽宗信著 に、こんな言葉があります。
「貢献という動機に立って、できることをして、暮らしが立って、ほんの小さな喜びや楽しい出来事が、日々に見つかったら、もうそれで十分ではありませんか。」
参拝する人々の姿を見て
「本来無一物」の中の心に残る言葉です。欲から適度に距離を置く。その術が日本では引き継がれてきたのではないかと思うことがあります。それは、参拝する人々の姿からです。
八百万の神
日本では、太陽や山、川、森など自然のいたるところに神が宿ると考えられています。「八百万の神」と言われます。ものを大切にする誇るべき文化は、きっとそこから生まれてきているものでしょう。いたるところに神の姿を見るのです。また、日本は、人と人との「和」を大切にしてきた国です。十七条の憲法の第一条が「和をもって尊しとなす。」です。
神様の存在を感じ、傲り高ぶることに価値をおかない
参拝するのは、八百万の神に生かされているという思いがあるからだと思います。生きる上で自然の様々なものに支えられて生きているという思いがあるからだと思うのです。ささやか恵みをいただいたことに感謝し、生きていく中で得られた導きや気づきを与えてくれた存在に祈る。参拝する人々のこころには、そんなアイデンティティといいますか、考え方があるはずです。だから手を合わせる姿を他人が見て美しいなぁと感じるのでしょう。僕にとっても日本人の守っていきたい美しい姿です。そして神々への感謝の思いや姿は、欲に流される心を抑制することができると思うのです。
新年の初詣では、あまり好きではありません。人がたくさんいて、自分が落ち着かなくなることと必要以上に疲れてしまうことが大きな理由です。
神社に参拝する姿を守りたい
朝ジョギングを継続し、神社をコースの中に取り入れ、早朝に参拝する習慣を取り入れてきました。決して大人数ではありませんが、早朝から白い息を吐き、手を打つ姿をほぼ毎回目にします。どんな目的だろう?どんな思いがあるのだろう?なぜこの時間なのだろう?その姿に思いを馳せながら、僕もそうありたいと思う日々です。
読んでいただきありがとうございます。良い1日になりますように。