サウナで瞑想で妄想

健康

今日は、楽しいサウナの日

木曜日です。なかなか仕事も忙しく、サウナに行けない木曜日が続きましたが、今日は十分な時間を確保して、サウナを楽しむことができました。ありがたいことです。

サウナを満喫する

僕は、サウナの滞在時間が長い方だと思います。1番低い場所で、じわじわと、そしてダラダラと汗をかいていくのが好きなのです。今回のサウナで気づいたことがありました。外気温(季節)とサウナ滞在時間は関係があるのだなということです。もっと細かく言えば、外気に影響された体温の状況によって、サウナの滞在時間は変化するということです。もちろん外気温が低い時、つまり冬は、サウナに入っていられる時間は長くなります。僕の冬シーズンの最長記録は、35分です。12分時計で、約3週。外気温が高くなると、つまり夏になると、サウナに入っていられる時間は短くなります。35分入っていられた僕も、今回は、15分しか入っていられませんでした。

サウナに確保している約2時間は、僕にとって贅沢な時間です。サウナという空間を贅沢に、自由に満喫しています。

サウナで瞑想

サウナの1番低いフロアにて、僕は半跏趺坐で足を組み、意識を呼吸に集中します。サウナですので、鼻から息を吸う時に熱い空気が鼻を通して体内に入ってきます。特にロウリュウの時などは、暑くて鼻が痛みます。無理をしないで、口から息を吸うこともあります。ゆっくりと長く息を吐くようにします。臍の下のあたりに意識を持っていくようにして、息を吐き切ります。サウナの中では、空気が熱いため肺も苦しさを感じることがあるので、無理はしません。瞑想を心がけていますが、人がたくさんいる中で、なかなか難しいものがあるので、浮かんでは消える意識を眺めるように心がけています。時に、ふと湧いてきた妄想やアイディアに囚われて、そのことに没入していることもあります。疲れているときは、浅い眠りにふっと落ちることもあります。

サウナで妄想

今日は、”自由”について妄想してしまいました。僕は、尾崎豊の曲を聴いて育ってきた世代です。尾崎豊は、「自由って一体なんだい?」と、同じ時代を生きる若者に歌で叫び問いかけました。僕たちの世代は、見えない社会の仕組みや価値観に縛られ、そして支配され、そこから解き放たれて自由に生きることを切望した年代だったのでしょう。だからあの頃の歌にはパワーがあった。

自由とはなんだろう?

「自由に生きたい。」「自由がいい。」よく聞かれる言葉です。その多くは、「誰のいうことも聞きたくない。」「わがままを通したい。」「ルールや決まりなど、関係なく生きたい。」と言い換えられるように思います。でも、誰のいうことも聞かず、わがままにルールも決まりもなく何をして過ごすのだろう?地球上の全人類が、誰のいうことも聞かず、わがままに、ルールも決まりもなく、生きていけるだろうか?それができると思うのは、あまりに自己中心的ではないか?

得ることができた自由で、「何かを作る。創作をする。」「本を読む。」「運動をする。」などは、前向きさと自分を律する精神力、主体的な姿が垣間見れるように思い、自立への意欲も感じ頼もしいです。けれど、誰のいうことも聞かず、わがままにルールも決まりにも従いたくない人は、スマホやゲームなど受身的で刺激の強いメディアにずっと浸っていたいというのが本音なのではないかなと思ってしまいます。それは、スマホがないと生きられない状態です。…でもそれって、スマホやゲームに自分が支配されているのではないか。支配されている状態と自由とは、真逆な状態ではないか。

そもそも生きるということは、食べなければ生きられず、眠らなければ生きられないという縛りがある。体は、病気やけが、加齢により、自分の思い通りに動かせなくなる。自分の思考さえも、自分の意思とは関係なく様々な妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消える。人間が生きていくことにさえ、様々な制約がある。人間に完全な自由などないのではないか。

すると、自由とは、ルールや決まり、しがらみのあるこの社会の中で真っ当に生きながら、自分の時間をわずかでも確保し、自分の思った通りに過ごすことではないか。たとえ、思い通りにいかなくても、自分が決めた通りに自分が行動できることではないか。そう妄想したのでした。

サウナの時間を確保して、自分なりに楽しく贅沢な時間を作り出すことができました。僕にとってとても貴重な自由を享受できた時間です。妄想もまた楽しいものです。感謝しています。

読んでいただきありがとうございます。良い1日になりますように。

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