事実を述べよ①

学ぶ

事実ってなんだろう?

「それは、あなたの思い込みではありませんか。」
「事実から、対策を考えるべきです。」
「客観的に現場を見て、事実の報告をしてください。」

事実…? 客観…?

事実を述べよ、客観的に捉えよ、ということに僕はとてもとても違和感をもっています。上記のようなことを、上司に指摘されたこともあります。その場に居合わせた大勢は、上司が正しいと思っている様子です。たとえ僕が「この場合、事実ってなんですか?」と聞いたとしても(頭にきて実際に聞いたこともあります。)
「事実は、事実だろう。それもわからんのか。」
「客観的に見て、どうなのかということを聞いているんだよ。えっへん。」
と言われ、話が噛み合わないのです。そして、その場に居る大勢も”事実は、事実だよなぁ”と思っている雰囲気を感じるのです。どうやら、おかしいと思っていないらしい…。おかしいのは、僕の方か…。
そして、指摘する人たちの発言が客観的な事実に基づいた発言・報告かというと甚だ怪しいのです。”それは、事実ではなく偏見ではないか?”僕に言わせれば、事実がなんたるか、客観とはなんなのか、考えたことがあるのだろうかと思ってしまうのでした。挙げ句の果てには、その事実の報告を総合して、適切な対策を立てるべきなのに、着地点を見失い結論が出せないこともあります。結論が出せたとしても、まとめる時に様々な忖度が入り込み主観的になってしまうことも多いにあるのでした。

客観的な事実など報告できない

僕が変わっているのかもしれません。嫌な感じで指摘されたことをずっと根にもって、意固地になっているのかもしれません。「客観的に物事を捉えることができるのだろうか。いや、捉えられない。」ずっとそう思ってきたのでした。
客観的な事実と思われる事象が確認できたとしても、それを人間の思考や感覚を通して文字や数字、絵などを通して表現するとき、どうしても主観は入ってしまうと思うのです。

たとえば「りんご」を事実としてどのように報告すれば良いのだろう。
「リンゴがあります。」
「どんなリンゴだね。』と問われたならば、そこには、もう主観が入ってしまうと思います。
「ええっと、赤いリンゴです。」とか「ジョナゴールドです。」とか「ヘタのあたりにキズがついているリンゴです。」「あまりリンゴの匂いがしません。」見方によって、見る角度によって、時間によって、その人の知識やコンディションによって、その見え方が変わってくるはずです。”赤い”や”ジョナゴールド”や”キズがついている””匂いがしない”は、事実なのだろうか?それらすべてが事実だとすれば、もっと列挙しなければならない事象は、山ほどあるのではないだろうか。場所は?時間帯は?天気は?大きさは?重さは?それらすべてを列挙できず意図的にいくつか取り上げるのならば、それはもう主観でしかないのではないか?報告する人物の抑揚のつけ方でも、認識の仕方が変わるのではないだろうか。そして、たとえ、すべてのリンゴの事象を列挙しリンゴの事実が浮かび上がったとしても、その事実にはなんの意味があるのだろう。

今日の仕事中に職場を歩いている時に、ふと蘇ってきた妄想でした。

(続く)

お読みいただきありがとうございます。良い1日になりますように。

タイトルとURLをコピーしました